メールマガジンの注意点
企業の自己表現に政治的な態度表明までふくめるのはいかがなものか、ジャーナ班リズム系企業に限るべきではないのかいという慎重論も出てくるわけだが(『通販生活』の読者にもこういう意見はけっこう存在する)、初めからタブーをつくってしまったらそもそも自己表現なんて成り立たないよね。
小売が9条を考えて、なにがわるい。
そういえば、チェルノブイリ被ばく者の救援キャンペーンを始めたときも同じようなことを言われた。
当時、高名だった某ジャーナリストに応援を頼みにいったら、「そういうキャンペーンは私たちジャーナリストの仕事です。
商人がそんなことに手を出すなんてとんでもない」とケンもホロロに断わられた。
たぶん、チェルノブイリ被ばく者を食いものにしようとする不屈者に私は見えたのだろう。
そんなこんなの経験の中から、私は次第に小売ジャーナリズムを夢想するようになった。
小はないのか。
現実を報道するだけのニュース映画からプロパガンダ派のドキュメンタリー映画が誕生していったように、小売のコマーシャリズムから小売のジャーナリズムが発生してもいいのではないか。
ひたすらモミ手をして消費者の顔色をうかがうだけの小売なんて真っ平だ。
私の夢想する小売ジャーナリズムとは、コマーシャリズムとジャーナリズムを足して二で割る式の折衷ではない。
小売は企業であり、企業の本質はお金儲けである。
そのお金儲けがつくってしまう消費者と地球への迷惑(最大の迷惑は必要以上の消費をついつい強制してしまうことだ)をどこまで減らせるか、どうしたらお金儲けを消費者と地球に役立つものに転化できるかといった小売者の自己確認1自己表現の視点が私の言う小売ジャーナリズムである。
あくまでもコマーシャリズムの枠内でジャーナリズムを実践し、そのジャーナリズムの視点からコマーシャリズムの暴走を食い止めていく方法が小売ジャーナリズムである。
そんな実験を可能にする売り場として、いま、通信販売は私の中に存在する。
「販売とは商品の使用価値を伝える行為だ」-本書で私はこのことをくり返し強調した。
人は、使用価値を納得して初めて買う決意を醸成していく。
われながらわかりやすい。
しかし、この「わかりやすい」はすぐに実践できる性質の「わかりやすい」ではない。
げんにいま、本書の使用価値を買う以前のあなたにどのように伝えられるのかで、私は途方に暮れている。
買う以前に使用価値を伝えられないかぎり、本書という商品は1部の絶対需要層(通信販売をビジネスにしている、あるいはビジネスにしようとしている人たち)以外にはあまりんは「通販を利用したことのある消費者たちにも買ってもらえる内容にしろ」と欲の深いことを言う。
通販利用者と言えば、1000万人くらいはいますよ。
その人たちにまで本書の使用価値は適用されると仮定しての話だけれど、それでは一体、その1000万人にどうすれば本書の使用価値を伝えられるのだろう。
使用価値を伝えやすい出版物の筆頭は雑誌だろう。
雑誌が単行本よりも売れるのは、読者が新聞広告や書店の店頭でその内容(使用価値)をざっと識別できるようにつくられているせいだ。
対して本書のような活字びっしり本の場合はどうかと言うと、店頭で「目次」をチェックしたくらいではとても内容までは掴めない。
雑誌の目次は1つ1つが独立した特集記事のタイトルだから伝わりやすいけれど、本の目次は全体を構成する部分としての標識(章)にすぎないものね。
「帯」はどうだろう?なるほど読者を立ち止まらせて手にとらせるまでの効用はあるけれど、しょせん二〇字前後の文字数だからとても使用価値までは伝えられない。
本における使用価値の伝達手段はいまのところ、次の6つくらいが考えられる。
るわけだけど、それにしても書評でとり上げられる幸運は千三つ(物件千のうちの三件くらいしか契約が成立しないという不動産業界用語)の確率だからね、アテにできない。
ってしまう。
という使用価値期待型。
いつも期待通りとはいかないし、なにより、本書の私みたいに著者ブランドがない場合はどうしたらいいんだよ?仰出版広告-これには二つあって、1つは「たちまち8刷」とか「20万部突破」といった販ないが、そもそもはどうしたら「8刷」や「20万部」にまで持っていけるのかが問題なわけでね。
もう1つは、おなじみの読者の声。
「ぞくぞく寄せられる感動の声」といった見出しつきで、購入者からの数行の感想が並んでいる映画広告型。
これは有効な伝達手段だけど、やはりある程度売れてからでないとつくれないところが泣きどころ。
ことがある。
販売者である私から見ると、㈲がいちばん常識的な伝達手段だと思うけれど、いかんせん出版物の点数が多すぎる。
使用価値伝達(販売)の責任を書店に一任するのは酷だ。
やはりメーカー(出版社)が負うべきではないのか。
ところが、出版業界にあってはごらんのように使用価値の伝達はほとんど偶然にまかせているわけだね。
「家電や雑貨じゃないのだから、出版物の価値は自然発生的に評価されるべきで、販売努力で価値を普及させるなんて邪道だい」というのが出版界の常識なのか。
私には常識ではなくて無責任な言い訳にしか聞こえないけれど。
使用価値の伝達を放棄しといて、「年々、活字離れがひどくなる一方で」はないだろうと思う。
そこで私としては、「あとがき」の構造改革を提唱したい。
よく、「書店で本を選ぶときはあとがきを立ち読みする人が多い」と言われるが、この現象は使用価値をたしかめたい欲求のあらわれだ。
翻訳本の「訳者あとがき」がいい例で、訳者はえられる。
本国における原書書評の紹介から、著者の思想的特徴、類書との位置関係、主題をめぐるこれまでの歴史性まで、「訳者あとがき」は使用価値伝達手段として機能している。
この「訳者あとがき」を応用して、これまでの「著者あとがき」を「編集者あとがき」に代えるべきだ、というのが私の提案。
どんな理由でこの本を企画したのか、だれに読んでもらいたいのか、類書との差異はどこにあるのかを、担当した編集者が語る。
新刊書が書店に並ぶ以前の読者といえば担当編集者しかいないわけだし、そもそもその本を発想したのは担当編集者なのだから、その編集者が売り子にならないで、だれが売り子になれる?
読者にとって、これまでの「著者あとがき」はあまり意味のないスペースだった。
必要な内ない関係者への謝辞くらいしか書くことはなかった。
いや、書くことあるよというのなら、本文のおわりにでも書けばいいのだ。
そんな意味のない「著者あとがき」よりも、「これからの買い物はいかにあるべきかを考えるのに欠かせない1冊」こんな見出しつきの「編集者あとがき」がついていれば、よほど、そのほうが売れると思うけど。
いくらあつかましい私でも、自分の口からはとても「欠かせない1冊」なんて言えないもの。
そりゃ、著者としては「欠かせない1冊」と言ってもらいたいだろうけどさ、もし、それが誇大表現だったらどうするのさ。
今日、人は商品を選ぶ前に企業を選ぶようになってきた。
したがって使用価値の誇大表現は出版社の信用にかかわる。
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